岐阜新聞 映画部

いま、どこかで出会える作品たち

theater somewhere

日本映画の隆盛から斜陽期まで…長年見続けてきた映画館

2019年10月30日

土浦セントラルシネマズ(茨城県)

【住所】茨城県土浦市川口1-11-5
【電話】029-821-1554
【座席】シネマ1:300席 シネマ2:280席 シネマ3:210席 シネマ4:170席

 日本映画が隆盛を極めた昭和30年代、人口13万人ほどの茨城県土浦市は「映画の街」と呼ばれていた。大正時代に開通した筑波鉄道の利便性と、戦時中は霞ヶ浦海軍航空隊があった事から商業都市として発展。戦後になると、市内には映画館が次々と設立されて、人口に対する映画館の割合が最も多く…映画業界では戦後の七不思議と言われていた。それでも経営が成り立っていたのは、筑波など周辺の地域から50万もの人たちが休日に集まったからだ。中には千葉県佐原市から、わざわざ水郷汽船で霞ヶ浦を渡って映画を観に来た人もいたという。

 市内にある黄色と白の縞模様が特徴的な映画館「土浦セントラルシネマズ」の前身となる「祇園会館」が設立されたのは昭和30年。向かいに郵便局の本局があり、当時の条例では可燃性フィルムを扱う映画館を建てられなかったため、しばらくは芝居や浪曲を上演していた。郵便局が移動して、ようやく映画館としてオープンを果たしたのは2年後のこと。しかし、周辺には大正時代から続く映画館が既にあったため、なかなか新作を回わしてもらえず、二番館としてのスタートだった。

 昭和38年に東宝とヘラルド映画の封切館となったもののヒット作に恵まれず、好調だった洋画に比べ、低迷する日本映画に一度は閉館も考えたという。しかし、昭和48年、遂に状況は一転する。『日本沈没』の大ヒットと、翌年に公開された『伊豆の踊子』によるアイドル映画ブームの到来だ。たのきんトリオの『青春グラフィティ スニーカーぶるーす』には、朝4時から列を作ったファンの女の子たちに、急遽、整理券を発行したものの、開場と同時にドッと入口に殺到したため、警察に協力を要請する事態にまでなった。

 現在、代表を務める寺内龍地さんは、この時代が興行におけるターニングポイントだったと振り返る。「劇場版 ドラえもん」の1作目を公開初日の事、子供向けのアニメだから朝1回だけで大丈夫だろう…と、プログラムを組んでいたところ、予想をはるかに上回るお客さんが来場したのだ。まさか1回で終わるなんて思っていないお客さんは午後になって続々と増え続け、近所にある市民会館に会場を移した。この映画は当たると予測していた寺内さんは、市民会館を事前に仮り押さえしておいたのだ。最終的には1,000席が完売して立ち見になったという。そして、複数館の時代を迎えた昭和58年、現在のビルに建て替えられた年の夏には『南極物語』が大ヒットを記録する。入口前の階段から通りまで長い列が途絶える事がなかった。

 駅から近い立地のおかげで、今も車を使わないシニア層から小中学生、子供連れのお母さんたちが多く訪れている。特に夏休みや春休みになると、お孫さんからおねだりされたお爺ちゃんお婆ちゃんがグッズを購入してくれるおかげで、物販の売上げが興行収入を上回る事も珍しくないという。いつの時代でも、映画館は家族にとって一大イベントの舞台なのだ。


出典:映画館専門サイト「港町キネマ通り」
取材:2014年4月

語り手:大屋尚浩

平成12年から始めた映画館専門サイト「港町キネマ通り」にて全国の映画館を紹介している。自ら現地に赴き、取材から制作まで全て単独で行う傍ら、平行して日本映画専門サイト「日本映画劇場」も運営する。

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語り手:大屋尚浩

平成12年から始めた映画館専門サイト「港町キネマ通り」にて全国の映画館を紹介している。自ら現地に赴き、取材から制作まで全て単独で行う傍ら、平行して日本映画専門サイト「日本映画劇場」も運営する。

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