岐阜新聞 映画部

いま、どこかで出会える作品たち

theater somewhere

武家屋敷と蔵のある城下町で戦後から続く街の映画館

2019年06月19日

一関シネプラザ(岩手県)

【住所】岩手県一関市磐井町2-13
【電話】0191-23-2902
【座席】スクリーン1:140席 スクリーン2:84席

 江戸時代から残る武家屋敷と蔵のある城下町として知られる岩手県一関市。駅から歩いて10分ほどのところに、二つのスクリーンを持つ「一関シネプラザ」がある。初めてここを訪れたのは9年前の秋。夕暮れ時…階段を上がると、小さなチケット売場の小窓から漏れる灯りに郷愁を感じた街の映画館だ。

 ここ磐井町は昭和10年頃まで花柳界で栄えた場所で、いくつもの置屋や料亭が建ち並ぶ歓楽街だった。駅からの道沿いに今でも呉服屋や酒屋が多いのはその名残りだろうか。近くを流れる磐井川の対岸には東北で三箇所しかない政府公認の遊郭があり、当時の旦那たちは料亭で芸者遊びをして、ホロ酔い気分で人力車に乗って橋を渡り、遊郭で一晩中遊んでいたという。

 磐井町にあった明治時代から続く芝居小屋が、芝居の合間に弁士と楽団を入れて無声映画の上映を行なったのが、一関における映画興行の始まりだ。「一関シネプラザ」は、現在、代表を務める松本健樹さんのお父様が、映画全盛期の昭和24年に酒蔵を改築して立ち上げた「新星」という館名の東映専門館が前身となっている。

 ちなみに、作家の井上ひさしさんは中学生の頃、ここでモギリのアルバイトをしていた。磐井川の築堤工事をお母さんが経営する井上組が引き受けていて、この近くに飯場を構えていたのだ。その頃から映画少年だった井上ひさしさんは、タダで映画を観られるという事で、長い期間働いていたという。もしかすると、数多くの名作戯曲はここで培われたのかも知れない。

 当時の一関は二度に渡る水害と戦後の物資不足が重なり、街は財政破綻の寸前。松本さんは、先代が看板の材料を掻き集め、自ら看板絵を描いていたのをよく覚えているという。しばらくは良い映画に恵まれず苦しい状況が続いたが、突然転機は訪れた。『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』が空前の大ヒットとなったのだ。この時ばかりは、前の道を観客の長い列が4列になって埋め尽くされるほどの盛況ぶりを見せた。そこから日本映画の黄金期が到来。時代劇の三本立興行を行なう度に、劇場の前は自転車が溢れ、自転車整理専門のアルバイトを雇うまでになった。そして、昭和32年に現在の場所にあった松竹専門館を買い取って「一関東映劇場」という館名で再スタートを切った。

 現在の館名になったのは道路の拡張工事によって建替えが行われた平成2年。周辺の映画館が閉館した平成9年に2館体制となり、邦画洋画を問わず様々な話題作を提供してきた。また、地元の映画ファンで結成された「一関シネマファン」に劇場を貸して定期的に名画の上映会も開催している。東日本大震災では、映写機やスクリーンが破損する被害を受けたが、映画館仲間の「伊勢進富座」と「シネマスコーレ」の協力によって再建を果たした。今も変わらず、ロビーでは映画が替わる度に来場される顔見知りの常連さんと談笑し、ポップで明るい椅子が特長的な場内は、子供たちの休みのシーズンになると黄色い歓声に包まれる。「一関シネプラザ」は、街にただひとつの映画館として、子供からお年寄りまで地元の人たちに愛されているのだ。


出典:映画館専門サイト「港町キネマ通り」
取材:2010年10月

語り手:大屋尚浩

平成12年から始めた映画館専門サイト「港町キネマ通り」にて全国の映画館を紹介している。自ら現地に赴き、取材から制作まで全て単独で行う傍ら、平行して日本映画専門サイト「日本映画劇場」も運営する。

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語り手:大屋尚浩

平成12年から始めた映画館専門サイト「港町キネマ通り」にて全国の映画館を紹介している。自ら現地に赴き、取材から制作まで全て単独で行う傍ら、平行して日本映画専門サイト「日本映画劇場」も運営する。

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