岐阜新聞 映画部

映画にまつわるエトセトラ

Rare film pickup

『戦場のメリークリスマス』までの苦難の道

2021年07月26日

大島渚というおのこ

最先端であるための光と影

大島渚渚は1932(昭和7)年、岡山県玉野市に生まれた。父は農林省に勤める水産学者で、仕事上、瀬戸内海の海沿いを転々とし、エビやカニなどの研究をしていた。"渚"という名前もそこから付けられたものだという。6歳の時、その父を亡くし、母の実家がある京都に転居した。

1950年、京都大学法学部に入学。政治学者猪木正道に師事した。早くから学生運動にも参加したが、法学部の助手試験には不合格で、猪木からは「君は学者には向かない」と諭されたという。また、在学中には劇団"創造座"を設立、主宰し、演劇活動も行なっていた。

京都大学卒業後の54(昭和29)年、松竹に入社。大船撮影所で大庭秀雄や野村芳太郎の助監督を務め師事した。

59(昭和34)年、『愛と希望の街』で監督デビュー。この作品は当初『鳩を売る少年』と題していたが、会社側は暗いという理由で題名の変更を指示した。妥協案として『愛と悲しみの街』に改題したが、公開時は『愛と希望の街』に勝手に変更されていた。

翌60(昭和35)年には、『青春残酷物語』『太陽の墓場』とヒット作を発表し、篠田正浩(岐阜市出身)、吉田喜重とともに、"松竹ヌーヴェルヴァーグ"の旗手と呼ばれるようになった。

同年、安保闘争に材をとった『日本の夜と霧』を発表。政治的、実験的な本作は公開4日後に、会社側の意向で上映打切りとなる。大島はこれに猛抗議、デビュー当初からの確執の綻びは、大島の松竹退社という結果で終結する。

1961(昭和36)年、大島は松竹退社組である脚本家の田村孟、石堂淑朗。俳優の小松方正、戸浦六宏、小山明子(大島夫人)の6名で、独立映画製作会社"創造社"を設立する。

創造社は監督主体による映画製作のかたちの先駈けとなり、篠田正浩の"表現社"、吉田喜重の"現代映画社"とともに、大手撮影所の映画製作システムに新たな一石を投じた。

しかし、興行=配給を含む既存の業界には馴染まないため、製作の資金の慢性的な不足に悩まされることになる。

そんな中、ATG(アート・シアター・ギルド)との提携は、映画製作の自由を確保し、政治的、社会的な芸術作品の発信により、次第に認知を得ることになり、その評価は高まった。

1972(昭和47)年、『夏の妹』を最後に創造社は翌73年に解散する。

大島はいち早く、テレビ業界とのつながりを模索し、ドラマやドキュメンタリーを20本以上手がけている。しかし、ある世代が持つイメージは、テレビ番組のコメンテーターとしての姿ではないだろうか。これらの出演には、資金の調達という裏事情も存在したと想像できる。

議論を中断する大音量の怒鳴り声は、学生運動時代から、映画製作の現場で鍛えられたものだったのだろう。

76年、日仏合作の『愛のコリーダ』により、大島の海外進出は始まる。78年の『愛の亡霊』に続く、『戦場のメリークリスマス』がカンヌ映画祭で発表されるのは83年のことだった。

語り手:覗き見猫

映画にはまって40数年。近頃、めっきり視力が衰えてきましたが、字幕を追う集中力はまだまだ大丈夫です。好きなジャンルは? 人間ドラマ…面白くない半端な回答…甘い青春映画も大好きです。

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語り手:覗き見猫

映画にはまって40数年。近頃、めっきり視力が衰えてきましたが、字幕を追う集中力はまだまだ大丈夫です。好きなジャンルは? 人間ドラマ…面白くない半端な回答…甘い青春映画も大好きです。

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