岐阜新聞 映画部

映画にまつわるエトセトラ

Rare film pickup

新聞社出身の草分け的映画評論家との邂逅

2017年12月30日

津村秀夫先生の思い出

 津村秀夫は1907年生まれ。東北大学卒業後、朝日新聞社で映画批評欄を担当。Qのペンネームで辛口評論家として知られた。飯島正や田中純一郎らとともに戦前からの映画評論の草分け的存在。

 筆者が中学生の頃読み始めた映画雑誌は「スクリーン」誌で、楽しみだったのは双葉十三郎の「ぼくの採点表」と津村秀夫の「不滅の映画美を今日に探る」だった。採点表は80点ならばその年のベストテン級の傑作、60点くらいなら平均という具合。「不滅の映画美」の方は公開作から1本を取り上げての評論で、これが小生が初めて接した映画批評。作品の本質を研ぎ澄まされた文章で突いており、なるほどこういう視点から映画を見るのか、と毎回貪るように読んだ。
 その後、大学に入り、教養課程の「映画論」という講義でその津村先生が担当されるとわかり、迷わず選択し授業は最前列で受講した。初回の授業で映画音楽をかけるので機材運搬の手伝いの募集があった。すぐに手を挙げ、授業の前後にお話しを伺う機会も得た。時折、学生は出入りできないはずの講師の控え室まで連れて行って下さり、若き日の思い出もお聞きした。そういう機会に先生の著書の一つである「溝口健二というおのこ」にサインもいただいた。今思い出すと赤面するくらい凡庸な「溝口監督というのはどんな人でしたか」という問いかけに、先生は一拍おいて「けったいな男だったなあ」と答えられた。評論家と監督という対立的な間柄にもかかわらず、その言葉からは親しみや尊敬の念が感じられた。
 先生は当時70を少し過ぎたくらいだったが、ヘビースモーカーが祟って呼吸が苦しくなられるときがあった。試写状をいただくこともあり、大ホールの一般向け試写会ではなく配給会社の試写室に入り込むこともできた。そこにはまだ現役だった双葉十三郎や淀川長治もいて、こちらから話しかけたりはしなかったが、向こうからもお前は誰だと聞かれることもなかった。お礼の葉書を出すと先生からは近況や小生の感想へのコメントが記されたりし、そのやり取りは卒業後2年あまりも続いた。
 心残りなのは先生が亡くなられた時、小生の米国への駐在が決まっており出国のわずか数日前で葬儀やお墓詣りの機会も持てなかったこと。映画部部長とは以前、小津安二郎が眠る鎌倉の円覚寺を一緒に訪れたが、津村先生の墓参にも誘ってみようか、と思う。

語り手:シネマトグラフ

外資系資産運用会社に勤務。古今東西の新旧名画を追いかけている。トリュフォー、リヴェット、ロメールなどのフランス映画が好み。日本映画では溝口と成瀬。タイムスリップして彼らの消失したフィルムを全て見たい。

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語り手:シネマトグラフ

外資系資産運用会社に勤務。古今東西の新旧名画を追いかけている。トリュフォー、リヴェット、ロメールなどのフランス映画が好み。日本映画では溝口と成瀬。タイムスリップして彼らの消失したフィルムを全て見たい。

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